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川島 & スワンモントリー アソシエイツ

วิเคราะห์สถานการณ์เครษฐกิจ สังคม และการเมืองเอเชียเป็นภาษาไทยด้วยมุมมองจากญี่ปุ่น สำหรับคนไทยโดยเฉพาะ

タクシンは田中角栄に似ている

バンコクでタクシン元首相の恩赦に反対するデモが行われたことを、日本の新聞も写真付で大きく報道している。このような報道を耳にするにつけて、タクシン元首相は日本の田中角栄元首相によく似ていると思う。

田中は1972年から74年にかけて首相を務めた。田中氏もタクシン氏も50代前半で首相に上り詰め、そして退任後に犯罪を問われた。

タクシン氏は海外に逃亡したが、田中氏は逮捕されて第一審で懲役4年の判決を受けた。それを不服として上級審に控訴していたが、1985年に脳梗塞で倒れて1993年に亡くなっている。

田中氏は逮捕された後も自民党の最大派閥を率い、病に倒れるまで大きな影響力を保持し続けた。大平、中曽根の両氏は田中氏の支援がなければ首相にはなれなかったと言われる。中曽根内閣は「田中曽根」内閣などとかげ口を叩かれた。「田中曽根」とは田中と中曽根を結び付けた造語である。

タクシン氏は海外に逃亡しているものの、タイ国内に強い影響力を保持している。インラック現首相はタクシン氏の実妹であるが、兄と頻繁に連絡を取り、兄の操り人形であるとのうわさは日本でもよく耳にする。

田中氏もタクシン氏も政治家を多く輩出してきた階層の出身ではない。田中氏は早くに父を亡くし、貧しい中で育った。小学校しか出ていない。タクシン氏はチエンマイの中華系の家系の出身で、警察官僚から実業家に転じており、タイの伝統的な支配層とは無縁だ。また、タイで多くの首相を輩出した陸軍とも関係がない。田中氏ほどではないにしても、タクシン氏もエリートではない。

両人の政権運営は強引であった。強引かつ緻密であったために、田中氏には「コンピューター付ブルドーザー」と言うあだ名がついた。タクシン氏の強引さについては、筆者によりタイの人の方が良く知っていると思う。

このブログでは少し離れた視点から、田中氏とタクシン氏が行ったことを歴史の中に位置づけてみたい。

筆者は田中氏とタクシン氏は「農民国家」が急速に近代化する過程において、必然的に出現する存在であったと考えている。その意味では、未だに田中氏やタクシン氏的な政治家が現れていないインドネシアやフィリッピンは、順調な経済発展が伝えられるにもかかわらず、日本やタイが到達した発展段階には達していない。

田中氏とタクシン氏はアジアの経済発展を語る上で、欠かせない存在である。このブログではこれから何回かに分けて、日本の経済成長と田中角栄氏との関係について述べることにする。それはタイにおけるタクシン氏の意味を考える上でも参考になると思う。