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川島 & スワンモントリー アソシエイツ

วิเคราะห์สถานการณ์เครษฐกิจ สังคม และการเมืองเอเชียเป็นภาษาไทยด้วยมุมมองจากญี่ปุ่น สำหรับคนไทยโดยเฉพาะ

外交上手なタイ 日本人のためのタイの歴史入門

 今回のブログはタイの人々より日本人に読んで欲しい。

 前々回述べたように、第二次世界大戦においてタイは日本と同盟を結んだのだが、タイは決して日本を信頼して同盟を組んだわけではない。そもそも、日本が掲げた「東亜解放」などと言うきれいごとを、そのまま信じるお人好しなどいないだろう。日本が西欧に代わってアジアの盟主になろうとしていると思われて当然なのだ。そして、実際に日本はそのように考えて、かつ行動した。

 タイは日本が戦争の勝利者になるかどうかについても疑問を持っていた。それは、米国と日本の実力を第三者として冷静に見れば当然の判断である。安易に日本と組んで、もし日本が戦争に負けたら大変なことになる。

 しかし、日本のインドシナへの進出が急であっために、タイは独立を維持するためにも、日本と組まざるを得なかった。ただ、同盟を締結した19411221日の時点では、日本海軍がマレーシアのクアンタン沖でイギリスの戦艦プリンス オブ ウエールズとレパルスの二隻を撃沈し、陸軍はマレー半島を破竹の勢いで南下しており、その勢いに幻惑されたことも事実であろう。タイは日本の勢いに乗って周辺に領土を拡張しようと考えたのだ。実際に翌年には日本と組んでビルマに進撃している。タイは列強さながらの帝国主義的な行動をとったのだ。その一方で、米国とイギリスには、仕方なく同盟を組んだのだとのメッセージを送り続けた。

 1943年になって日本の劣勢が明らかになると、タイは同盟を離脱するそぶりを見せ始めた。それに気が付いた当時の東条英機首相はタイを訪問して、日本が占領していたビルマの一部をタイに譲るとの提案を行った。しかし、タイはその提案を断っている。イギリスの植民地であったビルマの一部を手に入れるとイギリスの心象を害してしまい、戦争が終わった時に不利になると考えたのだ。

  日本は194311月に大東亜会議を開催した。日本が再三にわたりタイの首相であるプレーク・ピブーンソンクラーム(ピブーン)の参加を求めたにもかかわらず、ピブーン自身は参加せずに代理としてワンワイタヤーコーン親王を派遣するに留めた。親王を特命全権大使に任命することもしなかった。親王は会議に参加はしたが大東亜宣言に署名していない。194311月の段階で、タイは完全に日本を見限っていた。

  戦争に入る前から首相を務めていたピブーンは、19447月に日本の東条内閣が崩壊するのと時を同じくして辞職している。その後の内閣は親米色を強めた。タイは昔から外交上手と言われるが、この辺りはまさに外交上手なタイの面目躍如と言ってよいだろう。

 その極め付きが、戦争が終わった816日にタイが連合国に宣戦を布告した文書が無効であると言い出したことである。宣戦布告した時に国王はスイスに滞在しており、その職務を三人の摂政が代行していた。宣戦布告には三人の摂政の署名が必要であるが、摂政の一人であるプリディーは署名していない。だから無効だと言うのだ。プリディーは日本が負けた場合を考えて、あえて署名しなかったと言われる。

  このような言い訳が直ちに国際社会に通じることはなかったが、タイの米国駐在大使が、戦争が始まっても帰国することなく、「自由タイ」と言う連合国側に立った組織を作り活動していたことから、米国がタイを日本と同列の敗戦国として扱うことはなかった。

 その後、インドシナ半島において共産勢力の拡大が問題になると、戦中に首相を務めていたピブーンが反共を掲げて政権に復帰して、米国の支持を取りつけることに成功した。この一連の工作によって、タイは自国が敗戦国なのか連合国の一員なのかよく解らない状況を作り出した。まさに外交上手である。

 このブログはタイに向けて、日本から見たアジア情勢を語るものだが、戦争に係る日本とタイの関係を見ていると、外交が下手と言われる日本はタイから多くのことを学べることが分かった。これまで日本はタイから多くの留学生を迎えてきたが、外交に関しては日本人がタイへ留学した方がよいと思う。